2018年9月8日土曜日

●落合陽一とは:「嫌われ力」が世界を回す:

_

ニューズウイーク 2018年9月6日(木)18時00分 小暮聡子(本誌記者)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/post-10916_1.php

「嫌われ力」が世界を回す
落合陽一に聞く、落合陽一のこと



<メディアに引っ張りだこの若き科学者、落合陽一は自分に対する評価をどう見ているのか、理解されない孤独を感じることはあるのか......。
本誌9/4発売号「『嫌われ力』が世界を回す」未収録のインタビュー>

※本誌9/11号(9/4発売)は「『嫌われ力』が世界を回す」特集。
 気が付けば、ニュースの主役はイラっとさせる人ばかり。
 目覚ましく活躍する「逸材」が嫌われるのはなぜか。
 彼ら「憎まれっ子」こそが時代を変えるのはなぜか。

このところ、メディアに引っ張りだこの若き科学者がいる。
落合陽一、30歳。
肩書は「メディアアーティスト」、筑波大学准教授、同大学学長補佐、自社のCEOと多彩で、専門は応用物理、計算機科学、それにアートを融合させた作品制作と研究だ。

自らが生み出すテクノロジーと新しい発想、そして落合ならではの「言葉」によって論客としても新風を吹かせ、近著『日本再興戦略』(幻冬舎)では政治や教育、社会面での日本改革案(落合の言葉によれば「アップデート」)を打ち出し注目を集めている。

例えば落合は、「少子高齢化と人口減少についてはテクノロジーで対処していくことができるので、何の問題もありません」と言い切り、何を機械化すべきで、し得るのか、具体的な「解」を提示する。

しかし、時代を切り開こうとする人、改革しようとする人に批判はつきものだ。
9月4日発売の本誌『「嫌われ力」が世界を回す』特集では、バラク・オバマ元米大統領やFacebookのマーク・ザッカーバーグCEOなど「嫌われた」改革者たちを紹介。
落合もその1人として取り上げ、本人に「批判されること」について率直な疑問をぶつけた。

ここでは趣向を変え、「改革者」落合陽一が自分に対する評価をどう見ているのか、理解されない孤独を感じることはあるのかなど、子供の頃の経験も含めて聞いた本誌未収録のインタビューを掲載する。

◇ ◇ ◇

■分かってもらえないことに慣れてしまった

――日本を改革する、その具体的なプランを教えてほしい。

いくつかあるのだが、まずはテクノロジーこそ社会保障や公共政策であると理解されることが重要だ。
コミュニティーにとっては、テクノロジーの何を導入して何を導入しないかという価値判断が、政策を作る上での肝となる。

日本の社会問題を、どうやってテクノロジーで解決するか。
合理的に解決するにはテクノロジーを導入すべきなのだが、日本人は根性論でものを解決しようとするので、「がんばらない」という解決策があると説明するのは難しい。
がんばらずに頭を使ってスマートに解決しようと言うと、すぐに反発を招く

ただ、日本人は元来、テクノロジーが好きだ。
西洋人は人型ロボットに限らずロボットがあまり好きではないが、マスメディアによってロボットやテクノロジーへの認知度が高まった日本は、機械親和性が高いと思う。

たとえば介護ロボットの導入を促すときには、こう聞けばいい。
ウォシュレットに自分のお尻を洗ってもらうのと人間に洗ってもらうのとどちらが好きですか、と。
それと同じように、ロボットアームにおむつを替えてもらうのと人間に替えてもらうのはどちらがいいかと尋ねれば、ロボットアームとなるだろう。

日本はロボットベースの社会、テクノロジーベースの社会に変えやすいはずだ(編集部注:落合の研究室では、半自動運転機能を搭載した車いすや、レンズのいらない網膜投影の眼鏡など、身体的不自由を解消するテクノロジーの開発にも取り組んでいる)。

――特に日本には「出る杭は打たれる」という風潮がある。
 改革を唱えるなかで、自分も批判されていると感じることはあるか。

批判というか、今の時代は変な石が飛んでくることはある。
(ブロガーの)はあちゅうが結婚したらはあちゅうのことをみんなで中傷する、とか。
僕の場合は直接的にはそんなにはないけれど、誰かが僕にムカついているということはあるかもしれない。
インターネット上では僕のことを「胡散臭い」とか、「カルト宗教と変わらない」と言ったりする人はいる。
でも特に根拠はない気がするから、僕はあまり気にしていない。

根拠や理解のない批判をする人というのは、常にいると思う。
(自分は)よく「意識高い系」と言われることがあって、「意識高い系」自体はいい言葉だと思うのだが、(そういう言葉があるのは裏を返すと)分からないことを分からないって、言えない人たちがいるということなのかと。
つまり僕がやっていることは、理解されにくいのかもしれない。

――落合さんは、筑波大を卒業後に東京大学大学院に入り、学際情報学部初の飛び級で修了。
2015年には最先端の研究者の送られるWorld Technology Awardを、青色発光ダイオードでノーベル賞を受賞した中村修二氏に次ぐ日本人2人目として受賞した。
最先端を行く落合さんの思考を、すべて完璧に理解できる人は落合さん以外にほとんどいないのでは。

そう、たぶん最初は1%くらいの人しか分からない。

――理解されない孤独、というのを感じることはあるか。

あまりない。
誰かに分かって欲しいとは思っているけれど、分かってもらえないことに慣れている。
だから別にいいか、と思う毎日だ。

――昔から、小さいときからそうだった?

小さいときからずっとそう。
幼稚園で「これやりたーい!」って言うと、みんな「やりたくなーい」と言って。
じゃあ僕ひとりでやるからどうぞ、という感じだった。
例えばみんながドラゴンボールごっこをしたいって言ったら、僕は松平健の役をやる、と言って。
でも松平健はドラゴンボールに出てこない。
僕は、暴れん坊将軍のほうが好きだった。

――自分のやりたいことは理解されないと悟ったとき、周りに合わせようとはしなかったのか。

合わせようとせずに1人で楽しむことは多かった。
でも、1人だった時間はそんなに長くなくて、合う人はいた。
幼稚園にあまり友達がいなかったら、母親の友人の子供と遊びに行ったりとか、そういうことがよくあったし、それはそれで楽しかった。

■人の評価が気になるのは、近代教育の影響だ

――小さいときに、褒められた?

小さいときには褒められて嬉しかったこともあるし、けなされて悲しかったこともあったかもしれないけど、今はもうない。
それは、自分が「近代教育」から抜けたから。
小学校から高校までが、近代教育。
日本ではこの間に、他人にけなされたら悲しくて、他人に褒められたら嬉しいということを刷り込まれる。

近代教育において「誰かに褒められる」というのは、つまり何らかの評価機構に「良いです」と言われることだ。
テストで良い点数をとったり、かけっこで1等賞になったり。
そのことに価値があると小学校1年生から高校3年生まで教え込まれる。

逆に、そういうのは別にどうでもいいから、というのが大学教育。
評価基準を自分で作って、自分で「美しい」と認めるのが大学の、アカデミズムの世界だ。
つまりそれは美学の領域で、研究というのは美学であり、コミュニティー作りかつ探究だ。

僕は今、(筑波大で)大学教育をしている側の人間だ。
大学では、(褒められるためではなく)自分がやりたいと思ったことをまじめにやればいい。
そう思うと、あまり何も気にならなくなってくる。
そういう人たちをどれだけ育てることができるかが、勝負だと思っている。

僕は今、「出る杭」として打たれている気はしていない。
打ってくる球は打ち返すけど、打たれることが嫌だと思うのは教育の影響だと思う。
本来、出る杭は打つ必要ないから。出る杭を打ち合っている時間はないのに、みんな、他人に興味がありすぎる。

僕、他人に興味がないからね。
他人に興味がない人が増えたらいいなと思うけど、それは思いやりがない人という意味ではなくて。
道端で人が倒れていたら、大丈夫か?となるし、お隣さんに迷惑をかけないようにしようとも思う。
それは美意識の問題だ。
でも、「お隣さんが車を持っているからうらやましい」というのは美意識ではない。

――子供のときに出る杭として打たれたら悲しい思いをすると思う。
 悲しいとは思わなかったのか。

他の人より、その共感性が薄いのかもしれない。
ふぅん、となって、それで終わり。
あまり引きずらないし。
昔は悲しい思いをしたのかもしれないけど、(今は)あんまりない。もう、おばちゃん化したおじさんみたいな感じ。何も気をつかわなくなってしまった。

■正当な批判は受け取ったほうがいい

――それでも、日本を変革するためにはたくさんの仲間が必要だろう。
 分かってくれない人たちにどうやってアプローチしていくのか。

全員が分からないといけないわけではない。
ニッパチの法則(編集部注:世の中の事象のうち、80%のことは20%の要素が鍵を握っているという法則。20%の動向が全体の結果につながる)
じゃないが、きっと2割くらい変われば、一気に全部変わる。

――『日本再興戦略』の中で説いている、欧米という幻想にとらわれず日本に今あるものにもっと価値を見出そう、という視点は高齢層に受けそうだ。
 「出る杭は打たれる」日本で、年配の方からの反応は?

僕はけっこう突飛なことを言っていることは多いけど、あまり出る杭として打たれている印象はない。
僕の見方は、むしろ80代とかだと思う。
田原(総一朗)さんと仲がいい。

ただ、例えば近代教育の受験戦争の中で生きてきた、同い年から少し下くらいの世代の若い人たちとは、相性が悪いのかもしれない。
近代教育の価値観を否定すると、人生を否定することになるから。
仕事内容で選ぶのではなく、とりあえず(世間的に見て)「いい会社」に就職したいと言っている人とは、僕はたぶん相性が悪い。
そう思っている時点で他人の評価を気にしているわけで、価値基準が自分の側にないので。

――誰かに認めてもらうことで、自分なりの価値基準を確立してきたのか。

うちはけっこう放任で、父は忙しいし母も忙しくて。
でも、たまに僕のことを褒めてくれる人はいた。
ただ、今は昔に比べると比較的楽だ。
いいものはSNSに上げるとシェアされるし、僕はいいと思っているのにウケが悪いなというときも、きちんと解説すると意外に受け入れられたりする。

SNSにはマイナス面もあって、見たい情報だけを見ていると内側のコミュニティーにこもってしまう。
そうやって自分の世界にこもると、他人からの批判を受けなくなってしまうのであまり良くない。

でも僕は、内側のコミュニティー以外から批判されるのはわりと好きだ。
例えばエゴサ(-チ)のボットを組んであって、自分の名前で検索する。
それで否定的な意見を言っている人のことをちゃんと見ている。
訳のわからないディスリ(中傷)には反撃するけど、正当な批判は非常にためになる。
石を投げてくる人には武装して殴りかかっていくが、批評的にきちんと言ってくれる人には、ふむふむと思いながら勉強になっている。

――ツイッターで見ているのか。

見てる見てる。
見るのはいいことだと思っている。
こういう風に考えてそれを発信すると、そう反応する人もいるんだな、なるほどなぁと。
批判の声も、ちゃんと見ないとダメ。
それを批判だと思うのではなく、意見のサンプリングだと思えばいい。
石が飛んできたら投げ返すが、正当な批判は受け取ったほうがいい。
そんなことを常に考えている。

■自分はAでもBでもなく、Cになりつつある

――ドナルド・トランプが米政権を握ったことも、ある意味ではアメリカ社会における変革だった。
 トランプ現象のようなこと(主要メディアに出てこないような表面化しにくい声を味方につけて、社会をひっくり返す)を日本で起こすことは、可能だろうか

できると思う。

――自分でやろうとするなら、どんなやり方で?

僕は、トランプっていうよりはたぶん(バーニー・)サンダースみたいな人だから。
テクノロジーを使った、弱者の味方。強者の味方でもあるんだけど......。
(編集部注:サンダース上院議員は、16年の米大統領選挙で民主党予備選に出馬し、「大学授業料の無料化」など民主社会主義的な改革を唱えて既存政治に幻滅した若者たちから熱狂的な支持を得た)

トランプ現象みたいなのを起こすのはたぶん簡単で、それは「知識を詰め込めば詰め込むだけ馬鹿になる」という風潮を作ること。
勉強するだけ馬鹿になるから勉強するのをやめよう、という空気を作る。
それがトランプ現象だという気がする。

例えば、ビジネス本ってすごくサラっとしていて、エッセンスだけしか書いていない。
スルッと読めて、サラッと入ってきて、何だか学んでいる気になれてしまう。
考えさせるものではないのだが、ビジネス本はこれでいいよね、というスタイルになっている。

時間がない人類には最適化しているが、昔のことを今掘り返しても仕方がないよね、という考え方を持つと、実は文献調査すること自体がアホらしくなるかもしれない。
僕は研究する人間だからもちろんするけれど、勉強すれば悪化する、
学べば学ぶほど考えが入って動けなくなるぞ、ということを刷り込むと、反知性的ムーブメントが出来てしまうのだと思う。

――やろうとしているのか。

僕はまったく。
でも、今はそういう風潮をひしひしと感じる。

本当は、両方のスタイルを持っている必要があると思う。
つまり、細部まで詳しい考え方を持って、歴史からきちんと見ていくような、古典的なアカデミズムのスタイル。
もう1つは、それって今の時代に合わないからとりあえず脇に置いて、とにかく動こう、というスタイル。
この2つのバランスをうまくとった人類が必要なのだが、現在はどちらか片方に偏った人たちが二手に分断している。

やってやろうぜーって言っている人たちと、考え抜いた末に、うぅ、動けないよなぁって言うネット論壇(編集部注:主にウェブ上で発信する批評家や評論家)みたいな人たち。
後者は、考え抜いているので色々と詳しくて面白いのだが、動かない。
前者は考える前にやってしまうから、後者は前者のことを馬鹿にしているし、逆もしかり。

僕はどちらも面白いと思っている。
たまには思い切りやってしまえ、というときと、それはもっと考えたほうがいいんじゃないかということを、うまく合わせながらひとつのストーリーを作っていくのが大切なのだと思う。
今はそれぞれ、中から出てくる杭は打たない。
でも、あっちの出る杭は、こっちが打つ、となっている。

――それだと喧嘩してしまう。

そうなっていると思う。
でも、喧嘩しているように見せかけてプロレスしていると思えばいいのでは?
(石ではなく)球を投げ合っているんだなっていう、柔らかい気持ちが必要なのかもしれない。

――とはいえ、日本を変革したいと思ったら、両方ともと仲良くしたいのでは。

うん、したい。

一番重要なのは、あいつはどちらでもないけど別にそこにいてもいいよね、という空気感を作り出すことだと思う。
世の中が二項対立になったときは、おそらく第三勢力が一番強い。
AかBかを取れないから、Cを出すしかない。
僕はCになりつつあると思う。

――政治家になることは考えない?

自分で手を動かしたり作品作ったり出来なそうだし、忙しくても暇になっちゃいそうだな。
ただ、民間登用で文部科学大臣とかはやってもいいなと思う。
今は汚職が酷いけど。

【参考記事】嫌われることを気にしない中国人 「Mr.嫌われ力」の勝算と誤算

※本誌9/11号(9/4発売)「『嫌われ力』が世界を回す」特集はこちらからお買い求めになれます。



ニューズウイーク 2018年9月4日(火)17時45分 長岡義博(本誌編集長)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/mr.php

嫌われることを気にしない中国人 
「Mr.嫌われ力」の勝算と誤算
THE MASTER STRATEGIST’S MISCALCULATION


「白猫黒猫論」「先富論」を唱え、とにかく発展が必要と説き続けた鄧だが RAUL ARIANO-NURPHOTO/GETTY IMAGES

<人から何を言われようが自分のやり方を曲げない――。
そんな中国人のなかでも、卓越したビジョンと胆力で中国
を発展に導いたのが鄧小平だ。
彼は国際社会でひんしゅくを買う祖国を予想していたか。本誌9/4発売号「『嫌われ力』が世界を回す」特集より>

※本誌9/11号(9/4発売)は「『嫌われ力』が世界を回す」特集。
気が付けば、ニュースの主役はイラっとさせる人ばかり。目覚ましく活躍する「逸材」が嫌われるのはなぜか。彼ら「憎まれっ子」こそが時代を変えるのはなぜか。

中国人は「嫌われること」を気にしない。
人から何を言われようが自分のやり方を曲げない。
それは、自分の人生で頼りになるのが結局は自分(と家族)という考えが頭に染み付いているからだ。

政治家がその国の国民の水準や特質を表すとすれば、大躍進運動や文化大革命で国民に塗炭の苦しみを味わわせた毛沢東を筆頭に、歴代の中国共産党指導者は確かに「嫌われること」を気にしない人物ぞろいだ。
終始、毛に逆らったと思われないよう気を使っていた周恩来や、江沢民(チアン・ツォーミン)の影にさいなまれ続けた胡錦濤(フー・チンタオ)は少数派。
鄧小平はなかでも際立って他人の評価を気にせず、わが道を行く政治家だった。

鄧は3度失脚しても復活した男としてしばしば「不倒翁(起き上がりこぼし)」になぞらえられる。
ゲリラ戦のさなかに派閥争いに巻き込まれ、毛沢東を支持した果ての1回目の失脚。
そして文化大革命の荒波の中で「資本主義に走る実権派」と名指しされ、今度は毛に全ての職を解任されて南部の江西省に送られた2回目の失脚。
だが、より彼の「嫌われ力」を示しているのが76年の3回目の失脚だ。

71年、後継者だったはずの林彪国防相がクーデターを計画したのちにモンゴルで墜落死。
いよいよ後継者の心配をせねばならなくなった毛に呼び戻されて、鄧は73年に北京へと戻った。
第1副首相に就任し、国民生活を向上させるためのさまざまな手を打っていたが、あからさまに文革を否定する態度を取ったことがやがて毛の逆鱗に触れ、76年に3回目の失脚に追い込まれる。
この時、鄧は毛や取り巻きに迫られても決して自分の考えを変えなかった。

当時の中国ではカリスマ、あるいは神に近い存在だった毛とその取り巻きにあえて逆らうことができたのは、鄧が2つのはっきりとしたビジョンを持っていたからだろう。
1つは毛の命がおそらくは長くないこと、もう1つは社会主義を事実上放棄して資本主義の道を歩むことが、中国の国力と中国人の生活水準を向上させる上で避けられないこと──だ。

卓越したビジョンと他人の評価を気にしない「嫌われ力」ゆえ、鄧は中国のトップに立った。
その彼が最も「嫌われ力」を発揮したのが、ほかでもない89年6月4日の天安門事件だった。

国際社会の注視と圧力をものともせず、民主化を求める学生と市民を武力で鎮圧した真意は謎とされる。
ただ、ハーバード大学名誉教授のエズラ・ボーゲルは著書『現代中国の父 鄧小平』(邦訳・日本経済新聞出版社)の中で、鄧の言葉をこう引用している。
「弾圧をするのは、改革開放を継続して中国を現代化するために平和で安定した環境が必要だからだ」

中国は天安門事件後、「平和で安定した環境」の下で世界史上例を見ない規模の経済成長を達成した。
EV(電気自動車)が世界一普及し、キャッシュレス社会がどの国よりも早く庶民の現実になった今の中国を見れば、鄧はさぞ満足だろう。
自らの価値観の正しさを証明するこれ以上の例はない、と。

ただし、「嫌われること」を気にしないあまり、中国は世界でも有数の「嫌われる国」になってしまった。
他国の価値観や指摘に開き直るその姿勢は、国際社会でひんしゅくを買っている。
怒涛の成長が続く間、あるいはその余韻が十分残っているうちはいい。
しかしスピードが鈍ったときには、他国の「報復」が待ち構えている。

その点はさすがの鄧も予想していなかったかもしれない。

※本誌9/11号(9/4発売)「『嫌われ力』が世界を回す」特集はこちらからお買い求めになれます。



https://www.youtube.com/watch?v=jWSyw-mzxYs
落合陽一「トップクリエイターの素顔から日本の未来をのぞく」SENSORS
2018/08/20 に公開
(注)消去される可能性[大]







0 件のコメント:

コメントを投稿